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ID | m1013003 | ||||||||||||
アイテムタイプ | Article | ||||||||||||
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タイトル | 海と森の環境史:網場と魚付林の関係、若狭湾・五島・佐伯を中心にして | ||||||||||||
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抄録 | 要旨 従来の先行研究では、近世初頭から存在した魚付林思想と商品流通に目を向けたもの、山の腐葉土の栄養分が河川に流れ込み、漁場に対して与える影響を述べたものなどがあった。だが、「魚付林」は「海岸付近の森林」という抽象的なイメージで、具体的に何を以て「魚付林」とするのかほとんど論議されていなかった。 定置網は海岸などセリ(突出した部分)に設置し、網場の付近に森や山が多いことから網場と森林は密接な関係があるという仮説を立てた。さらに、網場付近の森林・山を仮に「魚付林」としたならば、「魚付林」が単体で存在するという考えを改め、網場と一体となって初めて成立するものではないかとも仮定した。 長崎県五島と大分県佐伯の二つの地域の調査結果から判明した事柄は、やはり網場・網代と森の間には対互関係があると肯定できるものであった。現在の魚付保安林の指定場所と定置網の設置位置を落とし、一つの図面の上で構成をすると、見事に両者の位置関係が重なるという面白い結果も出た。また、漁業関係の文献史料を紐解いていくと、漁場と森の関係がいかに歴史的に長いものであるか、その可能生を明らかにできた。 南北朝・鎌倉期の文書内に「立網」の記述が見られる点は、中世から立網が存在し、その時代から魚付林との関係が存在し、当時の漁労を生業とする人々は、網場と森の関係について意識していたと考えられる。その認識は近世になっても変わらず、山の牓示を網場の境界としたことからも網場と山が一体であり、その山が魚付林としての役割を果たしていたと捉えることができた。近代でも、保安林に関する公文書の中で、網代に対して魚付林が必要であると認めていた。また、「立網」から「定置網」と呼称は変化しても、仕掛け網の原型たる構造形式は中世・近世を通して現在まで変化せずに継承されてきた。 五島・佐伯は、両地域は、かつて魚付林が漁場に対して果たす役目の重要さを共通して強く認識していたが、現在ではその意識はほとんどなかった。たとえ、意識しているようでもその濃度は極めて希薄なものであった。魚付林は、森林法の中で規定された魚付保安林として、本来の意味は忘却されたまま形だけを残している。 その原因は、沿岸漁業から遠洋漁業への劇的な漁業形態の変化によるものがあると思われる。中世~近代まで、漁労の活動範囲は主に沿岸域で、網を仕掛ける場所は自然と森林・山の付近となり、両者の関係が成立した。だが、20世紀になり、機械化による漁業具の発展により、沖合への遠距離の航行が可能となり、生活の場が沿岸から遠洋へと伴い、沿岸に対する意識、「魚付林」の存在に対して意識が希薄となったと推測できる。 魚類の来遊を促す適当な場所の条件を知り得ることができたなら、漁獲減少に対して新たな漁場を開拓し、漁業者にとって手助けとはならないか、本研究の現代への活用法を少しばかりであるが検討した。 |
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NDC | |||||||||||||
注記 | 平成23年度修士論文 指導教員 飯沼賢司 |
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資源タイプ | text | ||||||||||||
ジャンル | Thesis or Dissertaion | ||||||||||||
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