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閲覧数:1538
ID m1011002
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タイトル 都市構成からみる豊後大友氏の領国支配について
別タイトル
著者
須藤, 端 (Sudou, Hajime)
別府大学大学院文学研究科歴史学専攻
日付
出版年:  - 
作成日
更新日
記録日: 2013-01-22
形態
識別番号
DOI
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抄録 要旨
 修士論文では、これまでの豊後大友氏研究で曖昧であった「府内と臼杵」、「大友館と上原館」、「豊後一国期の義統城郭政策」について考察した。
 第一章では、大友家当主の所在地を考察した。これまでの研究では、戦国期の大友家当主の所在地は宗麟の代に府内から臼杵に移ったとされ、この「臼杵移転」により、大友氏は臼杵に宗麟、府内に義統という二元体制であったとされてきた。しかし、イエズス会宣教師史料から大友家当主の所在地を調べ、弘治二年から天正七年頃の時期は臼杵、天正七、八年頃から天正十一年頃の時期は府内、天正十一年頃から天正十九年の時期は臼杵とした。大友氏は情勢に合わせて、府内・臼杵間を行き来する「複都制」のような体制であった。

 第二章では、府内における異なった性質をもつ「大友館」、「上原館」の二つの館と、府内の詰城である「高崎山城」について考察した。
 府内中心部にある大友館は、近年の発掘調査と、「府内古図」の研究により、府内の行財政を司る館であるとした。一方の上原館は、大友家当主が居住し、その周辺には家臣団屋敷が存在する武家の棟梁としての館とし、府内における「城」の役割を果たしていたとした。そして高崎山城は、宗麟の代から府内の守りとして整備され続け、島津氏が侵攻した際には、府内の詰城として機能していたとした。

 第三章では、九州国分後の大友義統の城郭政策と、新たな所在地について考察した。豊後一国を安堵された義統は、秀吉の「城割」政策を進め、在地勢力の軍事力を削ぎ、領国における自身の大名権力を強化した。そして、義統は新たな領国の中心地に家島・鶴崎の地を選び、家島で居住し、鶴崎に家臣団を集住させようとしていた。また、高崎山城を織豊系縄張り技術で改修している点は評価できるが、近世城郭、城下町のような都市計画ではないようである。

 以上のことから、戦国期大友氏は府内・臼杵、大友館・上原館という異なった性質の都市・館を抱え、それを一元化することはできなかった。豊後一国期の義統は、一元化された都市・館を家島・鶴崎の地に築こうとしていたと考える。
 豊後を除国され、評価の低い義統であるが、在地の大名では早い段階で織豊系縄張り技術の導入や、新たに領国の拠点を築こうとするなど、ある程度先見性をもった大名であると再評価したい。
キーワード
NDC
注記 平成23年度修士論文
指導教員 白峰旬
言語
jpn
資源タイプ text
ジャンル Thesis or Dissertaion
Index
/ Public / 修士論文 / 文学研究科 / 2011
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