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ID |
M1413001 |
アイテムタイプ |
Article |
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本文 |
M1413001.pdf
Type |
: application/pdf |
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Size |
: 142.8 KB |
Last updated |
: Sep 4, 2016 |
Downloads |
: 1762 |
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タイトル |
九州地方における周溝墓の流入と古墳成立のプロセス~弥生後期から古墳時代前期を中心として~
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別タイトル |
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著者 |
﨑野, 祐太朗
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別府大学大学院文学研究科文化財学専攻
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日付 |
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形態 |
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上位タイトル |
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識別番号 |
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抄録 |
周溝墓研究の始まりは1964年、東京宇津木向原遺跡において確認された遺構を、後に大場磐夫(当時国学院大学教授)が「方形周溝墓」として命名したことに始まる(大場1966)。氏によって成された「方形周溝墓という概念」の認識は、瞬く間に日本考古学界全体へと広まり、当時の高度経済成長期における発掘調査件数の増加も追い風となって、全国各地で周溝墓の確認事例が急増していく。また、方形周溝墓の確認事例増加に合わせて、「円形基調の周溝墓」(以下、円形周溝墓)も確認数こそ劣るものの、方形周溝墓と時期的に並存していたことが認知されるようになったのである。
今回の研究における問題の所在は、①弥生時代終末期前後の「外来系墓制の要素を有した墳墓」の顕在化、②九州地方各地域における外来系墓制と受容の様相、③新たな時代の主たる文化構成要素である古墳との関連性など、大きく三つの観点に分けられる。古墳時代の主たる文化構成要素である「古墳」の成立において、前段階の在来勢力における特定集団・個人墓として顕在化した一連の墳墓群と比較・検討した際に、どのような画期が存在しているのか。そして、外来系文化を携えた集団との交流の結果、どのような社会構造の変化が生じたのかを検討した。
古墳時代以前の九州地方においては、周溝と低墳丘を有する墓というのは普遍的な存在ではないことが判っている。例えば、弥生時代前期の東小田・峯遺跡、弥生時代中期の三雲南小路遺跡など、特に北部九州地域の在地系勢力における特定集団墓または特定個人墓として顕在化するものであり、共同体成員の墳墓として継続的に築造されるものではなかった。しかし、弥生時代後期後葉~終末期頃になると、平原墳墓群や中原墳墓群など、在地系墓制と異なる墳墓構成要素を有した周溝墓が出現するのである。特に日向灘沿岸地域に出現した周溝墓は、在地系文化を有した集落付近に築造されるものの、中・東部瀬戸内地域で確認される「円形基調」の墳丘形態、埋葬施設における木棺の多用、瀬戸内地域の祭祀土器が墳墓から検出されるなど、九州地方の他地域よりも外来系墓制の影響を色濃く受けた可能性がある。その一方で、北部・東部九州地域に出現した周溝墓・墳丘墓の多くは、前時代と同様に特定集団墓または特定個人墓として造営されており、在地系墓制の要素も積極的に採用されている。古墳出現前夜における「外来系墓制の要素を有した墳墓」の顕在化は、基本的に九州地方在来勢力が外来文化を伴う集団との交流を経た結果として生じるものであり、様々な要因による「文化的交流の度合い」から、外来系墓制受容の地域相が形成されたと考えられる。また、巨大な前方後円墳が築造される時代においても、旧来の地域性と紐帯が影響力を有していた可能性があることを指摘できるのである(北條1990・2000、吉留1995、久住2002、下條2010) |
キーワード |
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NDC |
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注記 |
平成27年度修士論文要旨のみ |
言語 |
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資源タイプ |
text |
ジャンル |
Thesis or Dissertaion |
Index |
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関連アイテム |
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